大田区と当社

大田区の町工場「内村製作所」

23区一の広さを誇る大田区には田園調布などの高級住宅街、東京の玄関口羽田空港、そして京浜工業地帯の一角を成す町工場の集積など、様々な顔を持っています。
「下町ボブスレー」でも有名になった大田区の町工場。これらのほとんどは昭和30年代まで海苔を生産していました。内村製作所も明治の初期、曾祖父の時代から、海で海苔を採り板海苔として問屋に卸すことを仕事としておりました。

ところが昭和37年、東京オリンピックを間近にした高度成長期になり、東京湾は埋め立てが進み水質も悪化、この地における海苔づくりの歴史は終わりを迎えました。

それまで海苔採取を行っていた父でしたが、プラスチック製造業へと転身を図ります。近隣の同業者たちも、町工場や運送業へと職を転じていきました。
そして日本が高度成長期からバブルの時代へと移っていく中、大田区の町工場はどんどんと発展を続けていきました。

昭和62年、私はそれまでのサラリーマン生活を辞め父と共に当社で働きはじめました。それまで週休2日の生活であったのが、月1日程度の休みしかとれないような忙しい日々に変わりました。体力的には大変きつかったですが、日本が世界でも有数の経済国へと発展し、日本製品が世界中で高い評価を受けているのを目にすることで、それを足元で支える仕事をしていることに誇りを感じ、力が湧いたのを覚えています。

その後、バブルの崩壊やリーマンショックなどの中で製造業も大きな荒波に揉まれていきました。古くから付き合いのある近隣の町工場が閉鎖していくのを見送る時は、寂しく物悲しい気持ちになります。

でも、大田区の町工場ネットワークは今も健在です。
プラスチックの射出成型に欠かせない「金型」ですが、それを作りメンテナンスする金型屋さんも近隣にあり、必要とあらば自転車で行き来しながら密な情報交換を図っています。IT技術が発達した昨今でも、試作品作成のための打ち合わせや調整などは実際にモノを目にしながら話をすることで、より早く正確にお互いの意思を伝えることができます。

また、近年は東京都や大田区などの自治体や公的機関も、町工場のネットワークを活かすため様々な施策を提供してくれています。
産業集積地である大田区に長く根差している当社だからこそ提供できるモノがあると私は信じています。

海苔採取用小舟の櫂はお守り代わりに工場の梁の上に置いています。

漁場までいくための大型船につけていた旗。